江戸と山葵、
山葵
江戸時代
進物に使われたものとして、
納豆がありました
そして.
山葵も進物とされていました。
富士宮市の
角田桜岳(佐野定経・通称与市)は、江戸時代末期大宮町連雀(現富士宮市東町)に住み、大宮町の町役人を勤め、助郷免除の嘆願や万野原の開発など地域の振興に尽くした功労者として知られ。江戸に度々遊学し地球儀の製作に関わるなど、文化的にも先覚的な人物でした。
角田桜岳は、
弘化3年(1846)11月28日の条に、「明日精進川へわさびをもとめに行く手はずをした。是も河津家へ遣すつもりだ。」とあり、わさびを納豆と共に河津家(旗本)への進物にしています。桜岳は、そのわさびを精進川で買い求めています。19世紀初期に編纂された地誌『駿河記』には、精進川村の項に「山葵 献上名産也」とあり、
当時すでにわさびが栽培されていて、幕府に献上されていました。
明治17年の『興国地誌』編纂のために精進川村が提出した資料には、同村の物産として煙草・芝川海苔・山葵が記載されており、年間3000本のわさびを産出しているとあります。
さらに、昭和初期に編纂された『上野村誌』にも、上野村の特産物として芝川苔とわさびが紹介されています。
「山葵は精進川に産し、産額多からざるも尤も佳品と称し、亦将軍家献上品の一たり。山葵田は三反歩余にして望月文左衛門家の有なり」とあり、
昭和初期には精進川地区に三反歩余(約3アール)のわさび田があったようです。
19世紀初期から昭和初期まで
精進川地区でわさびの栽培が行なわれていました。
現在、富士宮市内では猪之頭地区で栽培されていますが、
わさび栽培は大正時代から始められたといわれていますから、
精進川のわさび栽培は市内で最も古くから行なわれていたこととなり
精進川のわさび田がどこにあったのかまだ分かりません
かつては、精進川地区に隣接する猫沢地区にわさび田があったことを覚えています。
精進川のわさび田も同じ水系にあったのではないかと推定され。
静岡県はワサビ栽培の盛んなところで、生産量、産出額ともに全国1位の生産県。
栽培の歴史は江戸時代初期までさかのぼると言われ。
桜岳日記の弘化3年(1846)4月20日の条にも「孫八との国産也と江戸ニ而わさびもとめ出候よし」とあり、
駿河国産のわさびが江戸に出荷されていたこともわかります。
進物にされた納豆とわさびは、
この地方の特産品であったのかもしれません。
現在、富士宮市は「食」によるまちおこし、「フードバレー構想」がすすめられている。
山葵は珍重されている
グリーンエムアンドジャパン株式会社。
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